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形の秩序に従うこと。美しさの第一歩はそこから始まる。 欲深く、人任せな事で美しさは失われるので要注意。

オリジナリティと個性

所長は言う。 ミースはオリジナリティは強いが個性は薄い。 黒川紀章は逆。オリジナリティが薄く、個性が強い。 コルビジェはミースよりだが、個性もある。 オリジナリティの評価軸はどれだけ他がそれを真似したかだ。と。 オリジナリティはモノとしての普遍性。個性は人間。と捉えれるか。 それらを繋げるものは?

対極?

具象-抽象 意識-無意識 客観-主観 合理-情緒 機能- 計画- 理性- リアル-観念 古典-ロマン 唯物論-キリスト教 ヘレイズム-ヘブライズム 相対的-絶対的 20世紀は工業社会、21世紀は情報社会というが、極論で言えばどちらも前述する左方への傾倒であるように思う。 今自分の思考の8割は左方の思考だろう。こういうことを考えること自体がその思考だ。 こういった話は少し前の時代でもよくされたと思う。特に芸術の分野において。 絵画において、古典は神の世界を描き、その手法の発展として新古典、対比的思考、視点の移行によりキュビズムからの様々な現代アートがあるように思う。 しかし、古典の世界を概念的に捉えた場合、そこは右方の捉え方だろう。 この対極的思考は物事を捉えたと勘違いしやすく、本当は対極の間に、そのさらに深層に捉えなければならない何かがある。それに向かう議論が必要であるんだ。 建築は具象であり、情報の塊。だから、左方の思考に支配されやすい。だが、そういった思考だけの建物にパワーは生まれない。 良い建物はパワーを感じる建物だ。これは間違いない。どうしたらパワーが生まれるか。右方の思考に聞いてみよう。

街歩き

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構成された景色は時に美しく、時につまらなく見えるのか。と、当たり前のモノの中に様々な構成、原理原則を探している私の目。

健康

健康な体があることに感謝。そしてその体を大切にしなければ。 体が健康であれば、心も健康に。きっと。 悩んだりした時は走ろう。体で思いっきり空気を吸って、体が息をする。 部屋を掃除して、しっかり食べて、寝る。そしてもう一回考える。 体と心も自分の一部で全部が自分だから、なにかしら繋がっているのは当たり前で、どちらからの刺激がどちらかに影響を与える。 そして健康のためにはリズム、メロディが必要。流れる日常のリズムの中にクレシェンドやデクレシェンドがあり、単調にならないよう。それは感情と結びつく。世界がそれにより楽しくなる。それでいい。そこは周りの影響により反応はするが、あくまでも独りの世界。 でも、やはり対人関係の中に幸福があるのか?独りは他者がいての。 健康は独りのモノ。幸福はnot独りのモノ。か? なんて当たり前のことを思い、休みの日の朝は走ってみる。

中心

自分の中心はどこだ? ヘソか?心臓か?脳か? いや自分だ。自分の中心は自分だ。 そうだとすると、自分の周りがどう変わっても、自分は自分だ。中心を空虚にすると、周りもなくなる。どんなレベルであっても中心は必要で、中心からすべてが始まる。 自分が思うに、時間などの流れという概念と中心という概念があるような。太陽系のような。運動するものがファンデルワールス力のように重たいものの周りを回り。彗星がある軌道で流れ。そしてそれらは繰り返されている。 宇宙のような関係が自然の摂理として、人間の対人関係、自分の自分との関係、全ての原理原則のような気がする。 酔っ払いの夜に思う。

設計のイライラ

設計するにあたり、自分達若者は年配の方のような経験もない。そこだ。 若いことは、その分、原理原則に徹底していかないと適当にやっていることは、ある地点において経験者から明らかである。時間は有限であるので、すべてを調べることはできず、またその知識を得る方法も知っているものの、多く持ち得ていない。 それで、不意な視点により、そんなん知らねーよと思うことや、後でなんとかなるでしょと思うこともあるが、それは自分に対して不誠実で、単なる負け惜しみ。 有限の時間の中で押さえておくポイントを見落とした自分に非がある。次にどうするかを試されているのか? 流してしまえば大したことでないがそんなことを思う。イライラすること、弱気になること、それは気持ちよく生きていけない壁があるから。目的が間違っているのか?どこかに原因があるのか?自分の答えは見つかるのか? でも、自分は建築で生きていく。 精神論は置いておいて、失敗を成功の糧とするならばならない。 必死に勉強して原理原則の知識を使いこなせなければならない。知った上でどこまでやるかを考える。とにかく広く物事を注意深く見なければならない。意志をもって。

プロレス

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恒例ななりつつあるドラゴンゲート。仕事でチケットをもらうので…2回目。 どう楽しむのか分からないと初めは思うが、コレは無茶振りのやり合いだと思ってみると案外楽しめる。体育会系の高校生のノリのような感じがする。

竹板倉?

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日進市のとある公園にて。 全部竹。きっと木造の躯体に仕上げで竹を使っていると思うが…何やコレ!と車を停めてパチリ。

金山-西高蔵

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駐車場の階段室   金山周辺 縦横の鋼製サッシのシンプルかつシュっとした印象、美しいディテールだ。かつガラス面に階段がぼんやり写り、人の動きまで取り入れたデザイン。 どうだろう?20年30年くらい経っているのだろうか? 神社。神聖な気持ちになる。砂利を踏む足音。社殿の周りに陽の光が差し込む。 何故そんなに高い必要が?!

勇気

嫌われる勇気 この本との出会いは自分の世界が一新するような本ではなかった。しかし自分の思う世界感に自信が持てた。また言語化された中で、改めてその先にあるもの。次へのステップ。日々への還元。と言う意味で自分にとって、この本との出会いはかなり大きい。 アドラー心理学における、幸福へのシンプルな答え。そして、今、ここに生きる。 この本を読みながら、あの人やこの人も同じようなことを言っていたなと。そしてきっとその人達は幸せを手にしていたのかなと。 この先、自分が自分の今に生きる世界を想像するとワクワクしてくる。 良い本だった。

模型

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久々に模型を製作。 それは設計段階の一つの総合として重要だ。模型から実物をイメージしやすくなり、分析、評価と次なる創造のために力になる。 また、設計を進めるにあたり情報の共有がしやすく、伝えるための有効な手段だ。 それにしても上部と下部とが分離しすぎか?下部が上部のためにあるのならやっぱRCの庇を出すか。 所長の判断に任せるしかないが。。

従属

思考には従属関係があり、考え方や物事の捉え方にも順序があると思う。 政治における政策においても、トップダウンやボトムアップという従属関係が前提となっている。 順序を変えるとちがう思考となるということ。考えている内容は同じでも、思考をとりまく全ての関係、例えば、〇〇を考える前に読んだ本や行った行動、経験等、それらに思考は影響されるということ。それは、大きく言えば、様々な刺激に対するリアクションの中で生きているということ。 だから、全ての関係や自分にとっての当たり前を変えることで思考は大きく変化するだろう。そして造り手の私は、それにより造るものが変わると思う。そして、その変えたものが少なからず世の中に変化を与える。形あるものはすぐに古臭くなるが、形あることで存在を残すことができ、それは…。 しかし対人関係には縦でなく横の関係が重要だろう。重要というのは、アドラー心理学的な意味で。。 ということは思考も横の関係を気付くことのほうが「重要」か? 続・横の思考?

Reinbow!

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昼飯のうどん屋を出たら…oh!

インターネット

インターネットを介した情報社会について、再確認したい。 まずは正の側面について考えてみたい。 当たり前の事だが、人の利便性への要求より、ネットという共有可能な場を設けることで、多くの人が文字や画像により情報を得ることができる。そしてそこに市場が生まれ、きっと無限に拡大していく。 以下箇条書きにする。 ・一利用者は、文字や画像による情報から新たな創造性を得る ・情報の共有は仕事の効率を大きくあげる ・知りたい情報を文字、画像による関連づけより簡単に得ることができる ・より広い共同体意識を得ることができる ・市場として拡散しやすい ・ものでないのでかさばらない 以上。 それに対する負の側面。そして個人として必要なこと。続く。。 追記:ネット社会は横の関係を形成しやすい。何故ならそこに存在する自分は現実における様々なしがらみから解放され、自由に意見を述べたり、自由に調べたり、それが様々な分野の世界を横断しながら行うことができるから。

講演会 NAF

倉方俊輔さんの講演会が名工大であった。 倉方さんのやってきた事の紹介とその中で思うことのお話だった。 まず思ったのは、倉方さんが、モノ、対象を明確にしたうえで、その対象をとりまく全体を浮き出し、その対象の特徴を分かりやすい言葉で表現しており、建築思想にある評価を与えるのでなく、モノに内在する可能性を取上げるという姿勢に非常に好感を持てた。また、広く色々な建物の可能性を見る事が彼の目であり、それらをフューチャーして多くの人に知ってもらおうという気持ち、そうすることで建築をとりまく様々な環境を育んでいこうという思いに、なんだかスッとそうだなって思った。自分の楽しみが、他の人とも共有できるということのすばらしさを感じ、私も伝えること、育むことで得られる幸せに近づいてみたいと思った。 何故それがあるとかけがえないか。 建築は育むもの。 彼に共感できるのは、現代への確固たる眼ざしを持ち、かつ健康的な楽しそうな雰囲気を持っているからだろう。 いつか彼に自分の造る建築を見てもらいたいと思う。

無意識?

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無意識の存在について興味があり、書店にて購入。 悩みができたら、この本にあるメソッドを試してみようと思う。自己啓発本って胡散臭い感じで拒否感はある。これで悩みが消えるならと思うとやってしまう人の弱味を上手く漬け込んでる気がする。 ノージャッジ!フィフティ.フィフティ。でもの逆転。。。 試しにですかね。

ないデザイン

あるデザイン。 あること、ものをカッコよく見せるための装飾。これが一般的なデザインだと思う。 だがそこにはデザインすることで自己を肯定し、そこに喜びを得るデザイナーの意志が入り込んでいる。 ないデザイン。 それはあることによるデザイナーのオリジナリティが作り出さない。だが、ないことを創ることで、あることが純化する。そのあることは徹底的にデザインすればよい。だからないデザインは必要だ。 すなわち、あることのためのないことだ。存在は存在し続けるわけだから。 何をしなかったか。 それは受け入れにくいことであるが、非常に大切なことだと思う。

ギャップ

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今年も行きますか! というのは自分の興味が人に向いた時。普段あまり思わない感情。

営業?

多くの人はブログを営業ツールとして使う。個人の意見を別の世界の誰かが簡単に見ることができるところに価値がある。至極当たり前だが。 だから、セルフプロデュースするためにキャラクターを触れないように固めないといけない。作らないといけないと思う人もいると思う。でないと、見る行為の的にならない。それでは営業にならない。ということになる。 しかし、ある人達は自分のための日記としてだ。思いのままにクラウドに描かれた内容は別に他のためでないので、検索に引っかかってほしいとは一切思わない。だが、先にある営業のための練習としての場となるとは言える。そうしよう。

マイブーム

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野菜生活 カブうまっ!

評価軸

建築の評価軸 それは多層にまたがる。一点突破型のコンセプト一つの建物がすべてでない。評価軸が多層にあることで、建築家は色々な軸で建築のことを考察し、表現も多様になる。 それは建築のための建築をとりまく世界を健全にするために必要だ。 だが建築にはパワーがあり、 設計者として重要なことはそれら評価軸を正当に分析し、場合ごとでどこに比重があるべきかを整理することが必要であろう。 人の評価 評価は人間関係の中で自然に行われていて、そうしないと物事が前進しない。だが、そのスピードがあまりに速いと、 その価値を安易に見定め、もったいない関係となってしまう。そして可能性はパワーをもつ。 自分にとって他者の。 社会にとっての自分の。 ある世界の中でのある人の。 それは育むものである。 評価するための心 批判的、懐疑心、好奇心が評価の第一歩であると思う。 当たり前のことだ。

発見!

発見の目を発見! 緊張感、好奇心、向上心、それを外に向けた時。 低空飛行のままで。

丸い木造の家

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大工さん集団。 休憩時間は次へのモチベーションのために。

マイブーム1

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野菜生活1

カッコいい 2

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汗を掻いたこいつは、重心を下げるために底部が少し厚く、持ちやすいように 少しテーパーがついており、飲む時に口が当たる頂部は優しいがある丸みがある。

カッコいい 1

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こいつは重心が低く、受け皿としての気品もある。

連続、不連続 2

境界の設計、それが連続、不連続の設計。 玄関扉は不透明で、重く、公私の境界として。

連続、不連続

建築家が外部との連続性を意識して、自然を取り入れた設計ですといい、ガラス張りの建物を設計する。 ん?何それ? 理論的に、外部からの採光、通風をとりいれることは内部環境にとって良い。自然の景色があるとしたら、それを感じる場所があり、景色を楽しみながら…というのも良い。可能性を楽しみ、選択肢があるから。人はそんな単純でないから。だが、単純にガラスとは短絡的で、そこにインテリジェンスも情緒性もない。だが皆、そう造る。きっと私もそう。 家に求められる空間とは?こういう生活をしたいだろうと想像することが設計なのでは?人は多様だ。居心地の設計。 そんなことでない。 時間の連続性、空間の連続性の話だ。時間は連続しているが、生活の中には節度があり、それにより思考を切り替えたりする。すごく健康的だ。同じ時間がずっと続くと、思考は偏り、可能性という楽しみを奪われた気がする。 だから適度な連続、不連続を繰り返し、生活する。そして、そのスイッチは空間の不連続性による。 気分を変えたいなら、外に行き自然と向き合えばよい。それが自然の一番の楽しみ方だし、建築の中から自然を感じるとは自然に対しての敬意がない。個人のため自然ではないのだから。 建築を設計するとは、空間を創り、時間、思考、外部との境界をつくることだ。そこに意志をもって。不連続性と連続性の意志。 不連続性を楽しむ。 だから私はモーニングに行く。

理性

ある人に対し容姿も心もキレイなのに、好きと思う感情が生まれない。逆にそうでない人が好きになる。タイプな女性と好きになる女性が違ったり。 恋愛は感情が理性を超えて、人を選択する。 同様のことが建築でも考えられる。 理論的に素晴らしい建築。意匠、技術、それらの連鎖。それは同じように順を追って、同じものが造ることが可能。あたかも普遍的な建築だ。だが、設計は毎回異なり、そこに毎回、素晴らしい理論を組み立て、ぶつかる。すごく場当たり的で、一見普遍性を獲得したように思うかもしれないが、全くの見当違いだと思う。 感情的に素晴らしい建築こそ普遍性を獲得しうると思う。そこには設計者の感情が埋め込まれ、その感情を感じる瞬間、建築がこういうものなのかと気付く。それとは?建築には思いをこめることができるという「可能性」をもつということ。そして育むものであるということ。育むというのは時を共にしていくということだ。 それでも理性に従って生きるか。

本質

幸福、満足、彩りを感じる時は、対象の本質が見えていない。 詫びしさが本質への道である。自分の体験として、追い込まれて初めて本質への思考の道が見え、集中力が増す。その時、静寂の中に自分がいるのを感じる。その瞬間と同じ瞬間はもう現れない。 追い込まれて初めて…というのが自分の良くないが、思考の常は、色々なことに興味を持ち、暴れん坊なんだ。 しかし先に述べた幸福…はキラキラしていて魅了的だ。

モノ

世界はモノでできている。 現代社会はコトでできた世界に重きをおき、モノの世界にほぼ関心を持っていない。 だからモノはコトの成果としてしか見ない。モノをしっかり見ないで、コトがどうだったかという話ばかり。そんな世はつまらない。 だいぶ偏った意見だ。 でもやっぱり株とか保険とかクラウドとかのシステムで、実体がないモノは取っ付きにくい。。 ローテク万歳!!

保守管理から

建物にとって非常に大切な保守管理。 消費社会のなかで、多くの人は「直して使う」ということが身近でない。ダメになったらポイだ。だから、習慣として「手入れする」ということがあまりなく、保守管理を軽視してしまう。そして、施主と設計者の距離があると、適切な保守管理ができなくなる。 そんな形で生まれた建物は可哀そうだ。生まれてくる建物の将来をよく考えて設計に向かわなければならないと思う。きっと設計は、ディテールは、大きく変わると思う。 1. 造り手のための設計、ディテール 2. 施主のための設計、ディテール 3. 建物のための設計、ディテール 他にも別のための設計、ディテールがあるかもしれない。 これらはすべて違う。設計する際の気持ちの入れ方が違う。 これは1.施工 2.機能 3.意匠 についてのこととも言えるが、そこに気持ちを入れるか入れないかで、前述の1.2.3に変わるし、できてくるモノも変わってくる。

ダメなこと

ダメなことって? ・いいことの邪魔をすること ・怠惰、暴力、陰口、恐怖とか いいことって? ・生産的な行為 ・向上心、無垢な愛、健康のための行為 ・目的に対し、それが大筋、社会的な反感がなく、何かの糧になること どっちでもないこと ・思考の範囲外のこと 何か行動、思考するとき、ダメなことといいことを天秤にかけ、それを価値観とする。 誰の?何のための?が思考の範囲を決める。そしてそれは広く連鎖する。 だから複雑。 追記 結局のところ、幸せになりたいと思うことが良い事で、 ・お金のこと ・健康のこと ・恋愛、結婚のこと ・仕事のこと で充足感を得ることで幸福度が満たし、それに向う行為が良い事か!?

意図2

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狙いが見えてしまうものはつまらない。 例えば、スポーツ観戦。どんなプレーを次するかや、展開が読めてしまったらつまらない。見る人はそこで、その瞬間しか見れないものを見たいのだ。 スポーツの旨味はそこだ。驚くようなプレーがあると鳥肌がたつ。 プロレスはエンターテイメントという。スポーツとは違い、ここはこーする。客のために。沸かせるために。それはそれで面白い。派手でビックリして、他の人と盛り上がりを共有できる。でも、そこにある空気感はその瞬間だけだ。と思う。 ファンはその派手さに夢心地になり、現実逃避できる対象を求めているのかもしれない。 期待はあるが、それは願望まではいかず、裏切られてもそこまで悲観的にはならないのが普通だ。と思う。

意図

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意図とは 1.何かしようとすること 2.何かしようと考えている事柄 デジタル大辞泉 らしい。 今日、設計の中の依田邸で屋根をワッフルスラブにして、面的に扱いたいと宇野さんが言う。 分からなかった。 傾斜地で片流れの屋根で考えているので垂木を片方に流し、傾斜方向への開放性を明確に設計する。わかりやすく、自然な設計だと思っていた。 しかし、ワッフルスラブにするということで気が付いた。 垂木は建物に方向性を与える。それは方向性を意図的に作っているともいえる。方向性は人をある方向に誘導する。建築が人の可能性を誘導するのだ。 しかし、仮に方向性がなかったら。人は自由だ。建築が人に何か与えるのではなく、人が建築を通して"自ら気付く"。発見する。そこにある人間の自主性を重んじる設計ということだ。面であることの意味がここにある。 自らの意図を感じさせないという意図 言葉で現すのは難しいが、流石宇野さん。

マック

マックの新しい戦略に時代の変化を感じる。 新しい価格帯。少し高くても、付加価値、特に手軽さが求められている。 利便性への比重が重たくなることは、造り手からは、そこにない文化性、芸術性への完成度が落ちること。 消費者、個人は生活の知恵の必要がなくなり、思考能力が下がる。 情報が多いなか、選ぶことに重きを置き、創造的な思考ができなくなることへの恐怖がある。

出来事

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結婚式二次会→ ケンピの家に泊まり→金山→栄→コメダ→買い物 祝!結婚式はやっぱいいね!みんな明るく、祝福の気持ちでその場がいっぱい! 結婚する人、その人の人生を色々考える。彼女は天真爛漫で無垢で純粋。明るく幸せな家族を育むんだろうな。といつも思う。 そしてコメダ。ここの雰囲気は飾らないで、いつも落ち着ける。変わらないこと。そこに人気の秘密があると思う。

設計について

設計するためのたくさんの知識と経験。そして意志。 経験は、どういうことが建物をめぐり起りうるかのヒントを与えてくれる。思考方法、設計の策戦をつくるためのヒントだ。 知識は、個別具体的な技術的なことで、科学による普遍の事実であり、建物をつくるための材料である。 意志は、経験と知識を踏まえ、実現への決定権をもつ。 設計は、料理や登山のようだと思う。そこには理想と現実との壁がいくつもある。その壁を乗り越えるため様々な必殺技を駆使して乗り越えるのだ。 PS 設計は、並列的思考(A or B)と直列的思考(A → B)を同時に行い進んでいき、総合、分析、評価を繰り返す。(ワッツの設計プロセスモデル) ワッツのモデルをここでは否定したいが、自分の経験上それらは螺旋状に起こることはありえず、ほぼ同時に行う。 また、螺旋は絡み合い、前後する。

睡魔

「眠い時は寝よう。」 健康的な生活は、仕事での注意力、新しいモノやコトを発見する感性にとって必要不可欠だろう。 体が疲れているときに見える世界は歪んだり灰色がかって見えてしまっている気がする。 だが、寝ることへの恐怖もある。時間の断絶。 だから私はコーヒーを飲んで彼を押さえつける。 うまく利用して、物事の切り替えやリフレッシュしたいと思う時は、有効利用させてもらう。 彼とはうまくつきあうしかないのだ。

建築と自然

自然のすばらしさ。それは何かの体験を通して再確認する。 建築という体験を通して(フィルターとして)、自然をよりすばらしいものとして再発見することができればと思う。 自然の対象化、ピクチャレスク、パララックス、シンケル、ファンズワース邸 ※自然の正体はあえてふれない

光と影

日本語には光や影をあらわす言葉がたくさんある。 閃光、陽光、妖光、泉陽、曙光、愛日・・・・ 暗闇、暗黒、幽冥、陰影・・・ が光を表す言葉が圧倒的に多い。 影と光は共存し、影の中に光が、光の中に影がそれぞれ現れる。 私は影を見る。モノの中にそれはいる。 時々、バケモノが現れることもある。小さなバケモノ、巨大なバケモノ。 暗闇、暗黒のなかには巨大なバケモノがいそうだ。

薄日

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ブログを始めることにした。 自分の思うところを外在化しようと思い、その媒体としてブログを書く。 ニホンゴトレーニングのためでもある。 できるかぎり毎日書くようにしようと思う。