向き合う危険
エーロ・サーリネンの建築は好きだが、彼の失敗を覚書としておきたい。
モノと向き合い、技術と向き合い、そこに建築の普遍性を求める。
モノと向き合い、作品に出てくる本人のセンスはデザイン上のボキャブラリー以上に思いであり、そこに共感はする。しかし、何かに集中し、切り捨てた何かに対し、建築家としての責任感をもてるかどうかが彼への様々な批判であると思う。
統合すべく努力するか、責任感のある切り捨てを行うか。
カーンは前者でミースは後者か。
それは細部への敬意であり、部分から全体を考えるということであろう。
全体から考えられた部分における、唯一性から普遍性を導く道筋はどう理解すべきなのであろうか?
お金や自己承認の保守的な態度は現実存在するが、それを認め乗り越え、暫定的な妥協が実際には必要となることと戦うべきだ。
その難しさはきっとあり、それを理解している人は、その戦いにさえ敬意を表するだろうが、社会一般は違うよう。
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