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8月, 2016の投稿を表示しています

矛盾を超える

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終電を逃し、酔っぱらいが歩きながら思ったのは、やっぱり自分の心と向き合う意思だった。 ありのままの自分を環境という鎖から解きほぐし、自分の夢へ向かうことは何なのか? 自己実現欲求というパワーは自らを奮い立たせるが、そこに嫌らしさがあるものか。 大変な行動を伴う大きな壁に立ち向かう。だからそれさえも受け入れなければ自身の進化はないのか。 そのために自分自身の心を磨き上げる。表面でなく本質。深ーい海の底を覗き込もう。 心が原因で環境は結果であるのだから。 有限でメモリーの少ない自分の脳による短絡的な思考に、それを超える無限で均衡として現れるリアリティーが自分の何気ない行動であり、そこに矛盾への理解とその向こう側があるのだと信じる。 物質と空間をつなぐ「時間」が今のヒント。それは概念ではなく、人の心がつくる環境という直列的でない対象化は果たして意味があるのか。

人を信じる

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大学時代の友達と久しぶりに飲みにいった。建築における主体性、客観性とは?個人と公共とは?と考えさせられる機会であった。 メタ認知の重要性を感じるとともに、エゴの思考に落ちいっているのではないかという示唆が今日という偶然であった。 人間の多様性、そこにある生命力という力強さを信じることを建築においてどう実践できるか。その表現の多様なところに建築を創る楽しさの一つがある。 ミースから・・・無印良品まで 本質への手がかりの偶然の一致のために静寂が必要であろう。 まだまだ自分がどこに立つかを吟味中。 主体的な責任感。 とりとり亭のチキン南蛮はたまらなかった!

自我エゴ同一性

自我・エゴは自身において後天的なもの。 自我を乗り越えて本当の真実に向かう直感を養うべき。養うというより気づくべき。 自我は思考という道具を使い、真実を矮小化する。そして思考により単純化することで、自身の都合の良い部分を切り取り、自我・エゴそのものを守る働きをする。 建築がコンセプトという名の下で自身を守り、矮小化された真実を押し付ける嫌らしさがここにある。 多くの現代建築が、エゴの建築であり、伝統文化のなかにある土着的建築にエゴを感じないのはそのためであろうか。デザイン、装飾のエゴの嫌らしさの理由に常に敏感にならないと、すぐにエゴが迫ってくる。 エゴ VS 宇宙の法則 すべての存在の価値は普遍的だと感じる。だから存在の秩序を第一に建築を考える必要があると思う。普遍かつ変化のある秩序。 だから考えるな、感じろ!ということか。

客観

人の世界と物の世界を繋げる概念をふと思う。 それは時間。 常なる存在は無いという思想の上、時間の概念がそこにあった。 時間は様々なスピード、変化に対する感覚が前提にある。その時間感覚の差、人間のスピードと物のスピードが異なるという意味で物と人は異なる。しかし、それは唯我的なスピード感覚。仮にそのスピード感覚が超速い場合、相対的に時間感覚の差異は僅かである。 これもオリジナリティかと思い、静寂に救済を求める。きっとそこはとても遅い時間感覚で、敏感になることで様々な楽しみを見つけられる。 相対的、客観的とはそうゆうことか暑さに朦朧として納得する。

仮象②

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人の世界はすべて仮象の世界でただただ仮象を積み重ねつづけている。自己の存在さえも仮象。すべてが仮象であると気付いた時、仮象を具象に投影させる行為の普遍的な意味がそこに生まれる。 仏教的な仮象のフィロソフィー、すべては仮象、それ自体に志向性があるかどうかは分からないが、建築家はそれを受け止めた上で、具象の世界から、もしくは、具象の世界へ再スタートしていく。 って考えてると入れ子状の構造にはまってしまう。考えるな!感じろ!って事務所の窓の向こうを見て思う。 概念として乗り越えるべく、過去の偉人に耳を傾ける。 曖昧性とアベイラビリティ。

向き合う危険

エーロ・サーリネンの建築は好きだが、彼の失敗を覚書としておきたい。 モノと向き合い、技術と向き合い、そこに建築の普遍性を求める。 モノと向き合い、作品に出てくる本人のセンスはデザイン上のボキャブラリー以上に思いであり、そこに共感はする。しかし、何かに集中し、切り捨てた何かに対し、建築家としての責任感をもてるかどうかが彼への様々な批判であると思う。 統合すべく努力するか、責任感のある切り捨てを行うか。 カーンは前者でミースは後者か。 それは細部への敬意であり、部分から全体を考えるということであろう。 全体から考えられた部分における、唯一性から普遍性を導く道筋はどう理解すべきなのであろうか? お金や自己承認の保守的な態度は現実存在するが、それを認め乗り越え、暫定的な妥協が実際には必要となることと戦うべきだ。 その難しさはきっとあり、それを理解している人は、その戦いにさえ敬意を表するだろうが、社会一般は違うよう。

仮象①

-講演会に行った先輩の話を聞いて- サイエンスは物の世界か人の世界か? 物の世界を人の世界で解釈した法則性。 具象の仮象的解釈のサイエンス。 サイエンスの具象から乖離は、建築の普遍性を考える上で参考になる。 こうはならにように気をつけようと。。 理解した上での判断への批判はドンマイな感じ。 しかし人の話に耳を傾け、自身の思考を整理、広げていく楽しさはたまらない。