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備忘録 シンプルかミニマルか

「シンプル」は簡素で単純なこと 「ミニマル」は強調のための最小限な状態 「シンプル」な生活は質素で単純、統一感を基調とする。関係の単純化のために決まり事をつくることもある。 「ミニマル」な生活は強調するための意思のもと、他の要素を削り取る。 ストイックなイメージがある「ミニマル」な状態。そこでは、availabilityがあまり感じられなく、限定的な状態を想定した、使いづらさを感じてしまう。 存在する要素を肯定し、現存する状態の関係が調和するような豊かなイメージを持つ「シンプル」な状態が建築のあるべき姿と思う。

敬愛と慈愛と建築現場

良い建築を作るため、素材、職人、建築に触れるすべての関係に敬いをもって接する。 合わせて、慈しむの心が現場にあると良い緊張感が生まれる。 現場での創造の瞬間の空気感をつくるため、作り手が今の瞬間に向き合う環境を整えるため、黒子として現場を管理することが大切になる。

料理にたとえて

素材の甘みや渋み、舌触りや食感・・・ 調理の仕方によってさまざまな形に素材は変わっていく。 自分の舌が肥えているわけではないが、素材の旨さを引き出している料理に感動する。 ソテーや、素揚げに少しだけ調味料をかけて素材の旨さを引き出す。 時には熟成させたり、生のまま食べたり。 素材の味を愉しむ感動を建築を創る上で大切にしていく。

住宅について考える

第35回JIA東海支部設計競  <帝国>と向きあうわたしの住まい の要綱を読んだ感想を覚え書きする。 まず要綱について、極めて実務的であり、リアルな設計者の立ち位置として何を考えるべきかを問うように思う。 以下要綱引用・・・ <帝国>で暮らしていく私たちにはどういった振る舞いが可能なのでしょうか? ここではその住まいについて共に考えてみたいと思います。 かたちに過剰な期待をして概念的な空間操作に終始する、あるいはアイデアを滑走させるだけでは、 その潮流を突き抜けて、その先に新たな可能性は見出せそうにありません。 どこで、だれと、何を使って、何に思いを馳せながら、どんなタイムスパンで、何を実現するため に、どういったアプローチで、といったかたち ・・・ を ・ 成立 ・ ・ させるための背景を再構築する中で、改めて 住まうということを掘り下げていく必要があるのかもしれません。 私見として・・・ 帝国は次のように考えているのではないか。 資本主義による効率的な社会循環のため、大量生産大量消費を作り出す。 大量生産、大量消費のメリットは 1. リスクマネジメントに優れている。 2. 安定的な製品管理が可能。 3. 安く、汎用的な製品が実現 4. 雇用の拡大 ・・・ 各メリットと考えられる項目の副作用により次のようなデメリットが考えられる。 1. 一消費者との関係がうまくいかなくても、他の消費者でそれを補填する。販路の拡大が必要であり、それに伴い実工事費以外の部分で多くの営業費用が発生してしまう。そのため、建築であれば建物本体の低コスト化が第一に求められ、質の部分が削がれていってしまう。 2. 専門職ごとの分業化を進めすぎる中には、人の保守的にな部分により、プロジェクトの本来の意図とは異なる要素が入り込み、建築部材であれば、過剰設計となってしまっていたり、法的な事柄であれば、縛り付けられた融通のきかないルールとなってしまったりする可能性がある。 3. すなわち、本当に欲しいと思う、個別に対応する製品がない。 4. 経済規模の拡大に伴い、労力を補填するために次々に雇用が必要となる。その雇用者を統制するために、統一したルールの厳格化や、崇高な理念を掲げ、個人を会社に同一化させる。会社の数だけ、さまざまなパターンがあるが、個人

出雲・松江

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4/22-24と隠岐の島での打合せのため、島根に行き、空いた時間で出雲、松江で観光してきた。 ・出雲大社 とても伸びやかな参道で、多くの存在を受け容れ導く神の在り方を想像し、春の陽光が神殿に近づき高まる緊張感を軽く導いてくれた。 穏やかな気持ちをそのままに背筋が伸びるような とても貴重な体験となった。 ・宝物館 設計:菊竹清訓 曲面を有するRCの壁面にトップライトを有する整形の屋根がかかり、シンプルで明快な構成。 菊竹氏の言う、素の「かた」と「かたち」。出雲大社と呼応する現代的な回答であろう。 建設当時は増築されたであろう周辺建物の存在がなかったことを考えると、もっと洗練された空間であったと思うのだが、エントランス周囲の一体感のない部分が目立ってしまう現状は残念だった。 出雲大社 庁の舎は解体され、すでに新庁舎の建設中であった。 著名建築家の創った建築として建築協会が解体の反対活動をしていたことは真新しい。 良い建物を保存していくこと、マクロな視点では、良いことであるが、実際、老朽化し、機能的に寿命をすぎた建物の保存に何の意味があるのか。 何のための建築か。 建築物が目的となってしまう保存の思考は、歪んだ建築好き、部外者の意見であるように思ってしまう。 ・古代出雲歴史博物館 設計:槇文彦 ランドスケープ:三谷徹 夕方頃に行ったため、人も少なく、とても大らかなランドスケープが出雲の山々と呼応し、とても美しい光景に心揺さぶられた。 ・松江城 石垣の迫力に、圧倒された。その高さは壮大で、水平に連なる構成は美しい。 天守は権威、力強さ、繁栄の象徴であると同時に、松江の町への眺望、古き時代を現代のから望む視点場として大切な遺産であろう。 帰りの飛行機の中、今回島根で見た美しい景色を思い出し、その余韻に浸る時間に酔っていた。

海士

3月に隠岐の島、海士町にてホテルのコンペに参加する機会がありました。結果、他事務所が最優秀とまりましたが、そこで感じたことは今後設計をするにあたり、とても良い体験であったので、以下その感想として、共同で行った事務所宛てに送付したメールの一部を転記します。 ・・・・・ 「地域に根付くこと」「隠岐の自然の中での建築」 については特に考えさせられました。 訪れた際、隠岐の島にある 雄大な自然、島での人々の営みを少しで すが拝見し、 その場所にしかない存在を感じ、その上で 建築の存在がとても小さ なものと思いました。 季節が良かったからかもしれませんが・・・私は隠岐の島にとても魅了されました。 自然への敬服、共存というような自然観でしょうか。 菱浦港の穏やかな海を望み、そういった感覚が島内にあるように感 じました。 しかし島外から訪れた私が、島民の感覚を想像することは難しいで す。 一般的なところで勝手に想像するには、後鳥羽上皇ゆかりの地で数 々の神社があることから、 神道に由来する文化が根付き残っているのでは、とは思いました。 元来、山、海、森の豊かな自然への畏敬の念を抱き、自然を征服す べき敵としてでなく、 慎み持って接すべき聖なる空間として見ていたのではないか。 血縁、地縁でつながる居住共同体を大切にする性格ではないか。 しかし、日常生活の営みの中、そういった感覚と無縁の部分が増え る現代で、 「面倒だ。もっと便利がいい」と思う気持ちなど、利己的な部分も 大きいのではないだろうか。 そんなことを思う中、海士町のロゴは強く印象に残りました。 「ないものはない」 ①なくてもよい②大事なことはすべてここにある  とても強い言葉です。 それは建築という立場で考えると、その場所に建物を建てることが とても恐れ多い行為に思いました。 同時に、人々の営みを支え、築くことの必要性に応えるべく、そこ にある建築は、よりプリミティブな存在であってほしいとも思いま した。 また、地域に根付く ◯ ◯ ということについて、地産地消、地域企業 の雇用を生み出すこと、多くの住民が地域で活躍できる場の提供・ ・・・等々 建築の場合、「地域住民の意見を踏まえること」や「地産地消とし て、

松江、隠岐島

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3/22-25まで島根県へコンペの発表に行ってきた。片道1日かかるなか、バタバタとし移動し、松江、隠岐島でとても素晴らしい建築、風景との出会いがあった。  島根県医師会館:作者不明 白井晟一の設計だと思っていたが、帰宅後調べてみると作者不明らしい。 長崎佐世保にある 親和銀行本店・懐霄館と似ている。  島根県立美術館:菊竹清訓 水平ライン、湾曲した穏やかな表情と緩やかな空間、 宍道湖を望む景色と同調して、心落ち着く雰囲気を醸し出す。 海士町 牡蠣種養センター:アズテック建築設計研究室  施行中の木の架構。意図のないシンプルな架構は魅力的だ。  隠岐の島町 水若酢神社 古い建物を見て何を学ぶか。人それぞれであるが 周囲の環境を含めた空間配置 建物の誠実さ、威厳、プロポーション 美しいものの普遍の真理を感じる。 資料館 資料館内観 残念ながら休館中で外からしかみることはできなかったが、良い建物であった。  資料館別棟 上記の近くある古民家  いつかこんな建物を造りたい。   闘牛はしていないが、季節がよければ周囲には桜が咲き、とても美しいだろう。 周囲の樹木がその場を囲み、演出し、客席がそれに寄り添う。 場所をつくること、ここでの建築はとても小さな存在に思う。  街を歩けば神社が数々 素っ気ない小屋 小屋好きにはたまらない。  島の穏やかな景色 玉若酢神社  境内にある 八百杉 本殿は茅葺きで最近かけかえた模様 隣の 億岐家住宅 のお母さんに話を聞いたところ 茅葺きも今は島内だけで行うことは難しくなっているらしい。 文化を守ること、そこに住む人の大切にする心 後継していくことの難しさ、現実社会との調整の難しさ 伝えることと伝わることのギャップを埋めることはできないのだろうか。 船小屋  海をバックにする石殿  海へ向かう民家  夕日 美しい様々な景色は心を穏やかにし 「またこの場所を訪れたい」と心に残る

設計

大学の先輩である人建築事務所の関口氏が投稿した文章、雑誌「C&D」を読む機会があったのでそれについて思うとところの覚書をする。 おっしゃっていることは、 1. 言葉による構築から建築を築きたい。 2. 自然環境を謙虚に受け止める姿勢を大切にしたい。 3. 内外の中間領域が好きだ。 4. 機能とデザインは不可分だ。 だと思う。 3. は個人の好みもあるのであろうが、概ね設計者の姿勢として、もっともであろう。 その上で自身が建築とどう向き合うかが重要であろう。 自分の言葉で言いかえるのならば、 1. 建物を築く上で、施主との対話は必要だ。それは「何のための建築か」を実在させるためだ。理想を想像すれば、施主は機能、及び様々な要望を意見し、設計士がそれを形にする。その積み重ねで互いが同じ方向を見て計画を進めたい。そこには、言葉も重要であるが、互いのの「生活感」「人となり」を嗅ぎ取る、対面してのコミュニケーションが重要であろう。 2. マクロな話として、同意する。あまり自分にとっては身近に考えられないためミクロな部分である「庭」を例に思考する。 植物について考えると、そこに植えられる、もしくは植生する植物にとってどんな環境が気持ちいいか。「植物の気持ちになって考えてみること。」 そうすることが、そんな人間本意の庭作りでなく、植物を含むその場所に環境を謙虚に受け止め、その場所に建つ建築をより魅力的にすると信じる。 3.中間領域という表現はあまり好みではない。 簡単に触れるのであれば・・・ 内と外の境界線を線ではなく面として、境界を押し広げること。内のようで外、外のようで内、開いた空間に奥行きをつくるために魅力のある手法であることは間違いないと思う。 4.機能を失った建築は、人にとって不必要なモノとみなされ廃墟となっていく。それだけのことであろう。 あえて否定的に彼の意見を捉えるが、彼は、建築の作り出す空間に意味を求め、諸行無常の現象としての世界に重きを置いていると感じる。 蛇足であるが、本件とは直接関係ないがが最近思うことを、以下書き起こしておく。 設計者が設計という行為の中で「イメージ」をどう構築するかにおいて、作り手へのイメージが希薄になっていることがあるのではないかと思う。 それは社会背景が大量生産、規格化、

ワイドニュース

TVをつけ、話題のワイドニュースを見て思う。 楽しいことって薄っぺらいなって。 世間を批判する訳ではないが、今の社会って怖いなって思い距離をおきたくなる。 社会と自分の距離を埋めることの引き金を模索する今日この頃。