設計

大学の先輩である人建築事務所の関口氏が投稿した文章、雑誌「C&D」を読む機会があったのでそれについて思うとところの覚書をする。

おっしゃっていることは、
1. 言葉による構築から建築を築きたい。
2. 自然環境を謙虚に受け止める姿勢を大切にしたい。
3. 内外の中間領域が好きだ。
4. 機能とデザインは不可分だ。
だと思う。

3. は個人の好みもあるのであろうが、概ね設計者の姿勢として、もっともであろう。
その上で自身が建築とどう向き合うかが重要であろう。

自分の言葉で言いかえるのならば、

1. 建物を築く上で、施主との対話は必要だ。それは「何のための建築か」を実在させるためだ。理想を想像すれば、施主は機能、及び様々な要望を意見し、設計士がそれを形にする。その積み重ねで互いが同じ方向を見て計画を進めたい。そこには、言葉も重要であるが、互いのの「生活感」「人となり」を嗅ぎ取る、対面してのコミュニケーションが重要であろう。

2. マクロな話として、同意する。あまり自分にとっては身近に考えられないためミクロな部分である「庭」を例に思考する。
植物について考えると、そこに植えられる、もしくは植生する植物にとってどんな環境が気持ちいいか。「植物の気持ちになって考えてみること。」
そうすることが、そんな人間本意の庭作りでなく、植物を含むその場所に環境を謙虚に受け止め、その場所に建つ建築をより魅力的にすると信じる。

3.中間領域という表現はあまり好みではない。
簡単に触れるのであれば・・・
内と外の境界線を線ではなく面として、境界を押し広げること。内のようで外、外のようで内、開いた空間に奥行きをつくるために魅力のある手法であることは間違いないと思う。

4.機能を失った建築は、人にとって不必要なモノとみなされ廃墟となっていく。それだけのことであろう。

あえて否定的に彼の意見を捉えるが、彼は、建築の作り出す空間に意味を求め、諸行無常の現象としての世界に重きを置いていると感じる。



蛇足であるが、本件とは直接関係ないがが最近思うことを、以下書き起こしておく。
設計者が設計という行為の中で「イメージ」をどう構築するかにおいて、作り手へのイメージが希薄になっていることがあるのではないかと思う。
それは社会背景が大量生産、規格化、資本主義における価格競争の悪い部分の一部で、「良いモノ」に対しての評価が「技術的に優れた機能的なモノ」という「分かり易さ」に重きがあり、美しさに関わる評価においても「ブランド」という「分かり易さ」のあるモノが評価される。
それは情報化により、個人の思考よりも、多くの情報を「意味があるコト」と考え、「意味があるコト」以外のコト、モノに興味を見出せなくなっているともとらえられる。
茶室の美学にあるような「情緒に関するコト」に意味など求めれないのだが。

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