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確認申請

約半年間相談していた、崖地の物件の確認申請が今日やっとおりた。 建築協定、崖条例、土砂災害特別警戒区域、宅地造成、公共用物使用許可等で多くの申請機関、役所に相談した。 建築設計における真偽とは何かを考えさせられる。 法律は国民を守るためのものであるわけだが、それを執行する上での安全or危険の判断の基準は、法律の条文の想像できる条件の上でしか適応されない。 前提条件が複合的に存在し、単一的な判断は実際にできない場合において、安全側で設計することが設計士の本当の倫理であろうか?  過度な安全側→不経済かつ、保守的な思考による現実の建築物においての多くの部分は不必要な存在。必要十分な状態が本当の真であると思うと、そうでない場合の偽と見えてしまう感覚。 リアルに考える建築と、パッケージ化された表面における建築とを同じように判断することは、何が同じで何が違うのかを理解して確認申請に向かわないと「真偽は何か」をその場で問われるて慌てふためくことになる。だが設計士の通る道だ。 自由と制約。 前川国男 「法と建築家の主体性」より 「<法>というものは、人間社会の安寧と存続のため人間が考えだした工夫の集積であるということができましょうが、そのような人間の工夫も、それが<法律>とか<制度>として固定した瞬間から進展する社会の現実との救いがたい<肌わかれ>を生じて、矛盾を刻一刻と深めてゆく事は避けがたい宿命であるといえます。」

まだまだ

とてつもなく大きなも存在を前に小さい存在が萎縮してしまう感覚。萎縮してしまい、大きな存在に頼ろうとして失う自由を奪い返すかごとく、大きく、強くなろうという感覚。そういった感覚が浮き彫りになる体験は次への一歩として、今の環境に感謝する。 様々な執着の程度という自身への誠実さ具合が、オリジナル。

構造

可能性のない自我が絶望し、そして、必要性のない自我もまた絶望する。 もし、可能性が必要性を追い越したら、その自我自身は可能性から逃げ出し、戻る必要性はない。これが可能性の絶望である。 決定論者や運命論者は絶望し、絶望した人として我を忘れた。なぜなら彼にとってすべてが必要性になるからである。 Sφren Kierkegaard 自身、もしくは他者を信じ、未来に自身を委ねることは幻想である。そこに絶望があることを未だ知らないことが唯一の救いであろうか。 だから現実の中にある必要性に答え、必要性の中にある真偽を因果関係に基づき思考するという一般概念の重要性が本当の意味で難しい。 (現実の中での多くの混同は必要条件と十分条件が曖昧性を含む命題に対して適応され、そこに誤認を抱えたまま結論づけることによるような気はする。つまり、問題を分離りするか、曖昧性のパラドックスとして、偶然性を引き出すのか。それとも・・・?) 世界はきっとシンプルだ。 僕は「建築は構造の問題を従えた芸術である」ということを信じる。そして、力の表現はそこでシンプルな自然法則を体感できる現実であり、クラフトマンシップという、物への執着、思い入れは美しい。 仮象で、諸行無常である人が創る芸術が求める目的は何なのか? 現実社会の中のに結びつけ、審美的な不完全性、精神性、形式性・・・再認識する必要性に帰結すると思う。 巨匠たちのディテールⅡ エドワード・R・フォード/八木幸二 を読んで。

備忘録

雲がないにも関わらず、永遠に辺りは暗いまま 私の廻りは、喜びに満ちた人生から絶たれ、 立派に知の詰まった聖書にかわり、 抹殺されそして生き返らせられた私に働きかけた人間性には 絶対的空虚が表現される 知というものは完全に閉ざされた入口にあるものだ 汝の光は天の光よりも強く ひそかに光、すべての光の力を通した精神も光輝いている。 植物の根からすべての霧が生じる。 浄化と拡散、これは私が目で見たり、耳で聞けるかかもしれない 死ぬべき運命の光景には見えないものだ。 John Milton , Paradise Lost 今、私はこれを信じない。しかし、ここにある儚いロマンチシズムがリアリズムから生まれる創造の構築を越える声に耳を傾けるべきであろう。 自己の実存をより高度な対象への表現として、物語に組み込む葛藤がここに生まれる。

空となめくじ

イメージ
ふと気づく。現象としての環境と、存在としての生物。 変化と実在。現象への存在としての順応。ありのままで内からの生命力、自己を信じるのか、武装することによる対外的な対応を優先し、力のヒエラルキー、社会性に個を委ねるのか。 二項関係による思考で短絡的な結論は避けるべきではあり、各々の世界観は対象への距離感によるものだと思う訳だが、現象の思考と存在の思考の区分により、対象への理解が整理できることを今更ながら思う。 自分の思考を思い返すと、現象:存在=2:8くらいの割合ではなかろうか。子供の頃から、人との関係より、物の存在に触れることに、より楽しみを感じてきた。だから思春期なんかは、逆に、楽しい対人関係に憧れる時期もあった。今も時折思う。 建築において考えるならば、職人的か社会的かということだろうか。 またモダンから現代における建築の中で個人の建築家の表現がどこに軸足をおいているのか、ディテールを学ぶなかでその意味を解釈することが、建築哲学のリアルな楽しさではないだろうか。