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11月, 2015の投稿を表示しています

カッコいい 2

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汗を掻いたこいつは、重心を下げるために底部が少し厚く、持ちやすいように 少しテーパーがついており、飲む時に口が当たる頂部は優しいがある丸みがある。

カッコいい 1

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こいつは重心が低く、受け皿としての気品もある。

連続、不連続 2

境界の設計、それが連続、不連続の設計。 玄関扉は不透明で、重く、公私の境界として。

連続、不連続

建築家が外部との連続性を意識して、自然を取り入れた設計ですといい、ガラス張りの建物を設計する。 ん?何それ? 理論的に、外部からの採光、通風をとりいれることは内部環境にとって良い。自然の景色があるとしたら、それを感じる場所があり、景色を楽しみながら…というのも良い。可能性を楽しみ、選択肢があるから。人はそんな単純でないから。だが、単純にガラスとは短絡的で、そこにインテリジェンスも情緒性もない。だが皆、そう造る。きっと私もそう。 家に求められる空間とは?こういう生活をしたいだろうと想像することが設計なのでは?人は多様だ。居心地の設計。 そんなことでない。 時間の連続性、空間の連続性の話だ。時間は連続しているが、生活の中には節度があり、それにより思考を切り替えたりする。すごく健康的だ。同じ時間がずっと続くと、思考は偏り、可能性という楽しみを奪われた気がする。 だから適度な連続、不連続を繰り返し、生活する。そして、そのスイッチは空間の不連続性による。 気分を変えたいなら、外に行き自然と向き合えばよい。それが自然の一番の楽しみ方だし、建築の中から自然を感じるとは自然に対しての敬意がない。個人のため自然ではないのだから。 建築を設計するとは、空間を創り、時間、思考、外部との境界をつくることだ。そこに意志をもって。不連続性と連続性の意志。 不連続性を楽しむ。 だから私はモーニングに行く。

理性

ある人に対し容姿も心もキレイなのに、好きと思う感情が生まれない。逆にそうでない人が好きになる。タイプな女性と好きになる女性が違ったり。 恋愛は感情が理性を超えて、人を選択する。 同様のことが建築でも考えられる。 理論的に素晴らしい建築。意匠、技術、それらの連鎖。それは同じように順を追って、同じものが造ることが可能。あたかも普遍的な建築だ。だが、設計は毎回異なり、そこに毎回、素晴らしい理論を組み立て、ぶつかる。すごく場当たり的で、一見普遍性を獲得したように思うかもしれないが、全くの見当違いだと思う。 感情的に素晴らしい建築こそ普遍性を獲得しうると思う。そこには設計者の感情が埋め込まれ、その感情を感じる瞬間、建築がこういうものなのかと気付く。それとは?建築には思いをこめることができるという「可能性」をもつということ。そして育むものであるということ。育むというのは時を共にしていくということだ。 それでも理性に従って生きるか。

本質

幸福、満足、彩りを感じる時は、対象の本質が見えていない。 詫びしさが本質への道である。自分の体験として、追い込まれて初めて本質への思考の道が見え、集中力が増す。その時、静寂の中に自分がいるのを感じる。その瞬間と同じ瞬間はもう現れない。 追い込まれて初めて…というのが自分の良くないが、思考の常は、色々なことに興味を持ち、暴れん坊なんだ。 しかし先に述べた幸福…はキラキラしていて魅了的だ。

モノ

世界はモノでできている。 現代社会はコトでできた世界に重きをおき、モノの世界にほぼ関心を持っていない。 だからモノはコトの成果としてしか見ない。モノをしっかり見ないで、コトがどうだったかという話ばかり。そんな世はつまらない。 だいぶ偏った意見だ。 でもやっぱり株とか保険とかクラウドとかのシステムで、実体がないモノは取っ付きにくい。。 ローテク万歳!!

保守管理から

建物にとって非常に大切な保守管理。 消費社会のなかで、多くの人は「直して使う」ということが身近でない。ダメになったらポイだ。だから、習慣として「手入れする」ということがあまりなく、保守管理を軽視してしまう。そして、施主と設計者の距離があると、適切な保守管理ができなくなる。 そんな形で生まれた建物は可哀そうだ。生まれてくる建物の将来をよく考えて設計に向かわなければならないと思う。きっと設計は、ディテールは、大きく変わると思う。 1. 造り手のための設計、ディテール 2. 施主のための設計、ディテール 3. 建物のための設計、ディテール 他にも別のための設計、ディテールがあるかもしれない。 これらはすべて違う。設計する際の気持ちの入れ方が違う。 これは1.施工 2.機能 3.意匠 についてのこととも言えるが、そこに気持ちを入れるか入れないかで、前述の1.2.3に変わるし、できてくるモノも変わってくる。

ダメなこと

ダメなことって? ・いいことの邪魔をすること ・怠惰、暴力、陰口、恐怖とか いいことって? ・生産的な行為 ・向上心、無垢な愛、健康のための行為 ・目的に対し、それが大筋、社会的な反感がなく、何かの糧になること どっちでもないこと ・思考の範囲外のこと 何か行動、思考するとき、ダメなことといいことを天秤にかけ、それを価値観とする。 誰の?何のための?が思考の範囲を決める。そしてそれは広く連鎖する。 だから複雑。 追記 結局のところ、幸せになりたいと思うことが良い事で、 ・お金のこと ・健康のこと ・恋愛、結婚のこと ・仕事のこと で充足感を得ることで幸福度が満たし、それに向う行為が良い事か!?

意図2

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狙いが見えてしまうものはつまらない。 例えば、スポーツ観戦。どんなプレーを次するかや、展開が読めてしまったらつまらない。見る人はそこで、その瞬間しか見れないものを見たいのだ。 スポーツの旨味はそこだ。驚くようなプレーがあると鳥肌がたつ。 プロレスはエンターテイメントという。スポーツとは違い、ここはこーする。客のために。沸かせるために。それはそれで面白い。派手でビックリして、他の人と盛り上がりを共有できる。でも、そこにある空気感はその瞬間だけだ。と思う。 ファンはその派手さに夢心地になり、現実逃避できる対象を求めているのかもしれない。 期待はあるが、それは願望まではいかず、裏切られてもそこまで悲観的にはならないのが普通だ。と思う。

意図

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意図とは 1.何かしようとすること 2.何かしようと考えている事柄 デジタル大辞泉 らしい。 今日、設計の中の依田邸で屋根をワッフルスラブにして、面的に扱いたいと宇野さんが言う。 分からなかった。 傾斜地で片流れの屋根で考えているので垂木を片方に流し、傾斜方向への開放性を明確に設計する。わかりやすく、自然な設計だと思っていた。 しかし、ワッフルスラブにするということで気が付いた。 垂木は建物に方向性を与える。それは方向性を意図的に作っているともいえる。方向性は人をある方向に誘導する。建築が人の可能性を誘導するのだ。 しかし、仮に方向性がなかったら。人は自由だ。建築が人に何か与えるのではなく、人が建築を通して"自ら気付く"。発見する。そこにある人間の自主性を重んじる設計ということだ。面であることの意味がここにある。 自らの意図を感じさせないという意図 言葉で現すのは難しいが、流石宇野さん。

マック

マックの新しい戦略に時代の変化を感じる。 新しい価格帯。少し高くても、付加価値、特に手軽さが求められている。 利便性への比重が重たくなることは、造り手からは、そこにない文化性、芸術性への完成度が落ちること。 消費者、個人は生活の知恵の必要がなくなり、思考能力が下がる。 情報が多いなか、選ぶことに重きを置き、創造的な思考ができなくなることへの恐怖がある。

出来事

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結婚式二次会→ ケンピの家に泊まり→金山→栄→コメダ→買い物 祝!結婚式はやっぱいいね!みんな明るく、祝福の気持ちでその場がいっぱい! 結婚する人、その人の人生を色々考える。彼女は天真爛漫で無垢で純粋。明るく幸せな家族を育むんだろうな。といつも思う。 そしてコメダ。ここの雰囲気は飾らないで、いつも落ち着ける。変わらないこと。そこに人気の秘密があると思う。

設計について

設計するためのたくさんの知識と経験。そして意志。 経験は、どういうことが建物をめぐり起りうるかのヒントを与えてくれる。思考方法、設計の策戦をつくるためのヒントだ。 知識は、個別具体的な技術的なことで、科学による普遍の事実であり、建物をつくるための材料である。 意志は、経験と知識を踏まえ、実現への決定権をもつ。 設計は、料理や登山のようだと思う。そこには理想と現実との壁がいくつもある。その壁を乗り越えるため様々な必殺技を駆使して乗り越えるのだ。 PS 設計は、並列的思考(A or B)と直列的思考(A → B)を同時に行い進んでいき、総合、分析、評価を繰り返す。(ワッツの設計プロセスモデル) ワッツのモデルをここでは否定したいが、自分の経験上それらは螺旋状に起こることはありえず、ほぼ同時に行う。 また、螺旋は絡み合い、前後する。

睡魔

「眠い時は寝よう。」 健康的な生活は、仕事での注意力、新しいモノやコトを発見する感性にとって必要不可欠だろう。 体が疲れているときに見える世界は歪んだり灰色がかって見えてしまっている気がする。 だが、寝ることへの恐怖もある。時間の断絶。 だから私はコーヒーを飲んで彼を押さえつける。 うまく利用して、物事の切り替えやリフレッシュしたいと思う時は、有効利用させてもらう。 彼とはうまくつきあうしかないのだ。

建築と自然

自然のすばらしさ。それは何かの体験を通して再確認する。 建築という体験を通して(フィルターとして)、自然をよりすばらしいものとして再発見することができればと思う。 自然の対象化、ピクチャレスク、パララックス、シンケル、ファンズワース邸 ※自然の正体はあえてふれない

光と影

日本語には光や影をあらわす言葉がたくさんある。 閃光、陽光、妖光、泉陽、曙光、愛日・・・・ 暗闇、暗黒、幽冥、陰影・・・ が光を表す言葉が圧倒的に多い。 影と光は共存し、影の中に光が、光の中に影がそれぞれ現れる。 私は影を見る。モノの中にそれはいる。 時々、バケモノが現れることもある。小さなバケモノ、巨大なバケモノ。 暗闇、暗黒のなかには巨大なバケモノがいそうだ。

薄日

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ブログを始めることにした。 自分の思うところを外在化しようと思い、その媒体としてブログを書く。 ニホンゴトレーニングのためでもある。 できるかぎり毎日書くようにしようと思う。