投稿

9月, 2016の投稿を表示しています

流れるメディア

宇野さん曰く 「ネットによる情報発信の力は今小さくなってしまっている。」とのこと。 SNSによる情報の流動性の高速化により、閲覧者のネット全体に対する姿勢がかなり受動的となり、ブログ、HPへのヒットはごく限られたほぼ定期購読者になってきている。新しい出会いは、リアルのある世界へ戻りつつある。との読みだ。 確かに。 情報の流動性により、人の興味の持ち方は変わると思う。人間はそんなに頭が良くないので、忘れてしまう記憶に対し、行動を伴うにあたり、振り返る、特別な出来事でないかぎり、同一化している情報を選択するのは難しい。 基本的に表層的レベルでの差異化は、主に発信テクニック程度のことで、テクニックが発明された当初の特許感から数十年で全体に浸透し、古いテクニックは同一化されていくと思う。だからそこで戦う決意をしたならば、テクニックを磨き続ける必要があろう。 しかし行動のトリガーは必要だ。選択し行動するためのステップはそれぞれあるだろうが、消費者としての能動的選択のためのトリガーとして、経営者としてのセルフプロデュースとして、メディアへの発信リテラシーが問われる。 記憶術として、 ・振り返る事のできること。 ・情報の旨趣選択が自己が関心のある範囲であるリテラシーのもとでなされていること。 ・差異化するための著名性 ・義理、人情によるつながりの特別性 ・人への関心から体験を通して得た関係人脈 が、今思いつくトリガーとなり得る特性。 ブランド化する雑誌力。思いつく割と単純な一つの答えである。

削れないもの

自己批判による純粋さ 固有のメディウム モダニズム 切り捨てる(コンセプト) → 単純化ー全体性の欠如 → 多様性という秩序 ex 絵画ー切り取ることによる芸術ー平面性 境界を引く事による、他者の尊重 線を引く事ー観念の図示ーイリュージョン 過去との連続性を受継ぐことの新しさ。新しさと実践。 そこに歓びがあればよいのだが。

合意形成

個人と個人の合意形成は雰囲気が大切。 全てを毎回数字化し説明する労力を取るか、

猿。 そいつは目の前の興味あるものに飛び付いて本能のままに動き回わる。知らないうち に背後で悪さをしないように、用心深く観察しておかないといけない。きっと彼も優しい心を持っているはずだと信じよう。檻にいれるような傲慢な方法では彼の可能性と協力関係を結ぶことはできない。だから語りかけることが大事なのかもしれない。興味の対象をうまくすり替えることができたら後は簡単。 大猿に小猿は勝てない。

コミュニケーション

難しい。 相手の尊重。関心。 その技術。 エゴを消すことの難しさを痛感し、自分の甘さを痛感する。 感謝の気持ちの再確認が必要だな。すぐに忘れてしまう自分を反省する。 強さによる刺激より豊かさという全体への感覚を重要視する。それぞれがそれぞれで偶然を許容できるべきだと思うが。 時に、設計中で「それってこの建築とは真逆じゃん」って思ってやり直す。 「尊重」それが唯一の結び目。

わかりにくいこと

わかりやすさは美しい。 個別の尊重としてであろうか? それぞれがそれぞれである訳なのか? 勘違いしていたことに気づいたので覚え書き。 ▽ 事実としてのわかりにくさ ー 複雑なもの、カオス ≠ 詩的で読み替え可能な多様な豊かさという名のわかりにくさ ー 多層的、重層的な概念 外界が複雑で分かりにくい時、体が弱ければ、恐怖と不安、強ければ闘志を。単純で把握しやすいものは安心や親近感、それか退屈を。 複雑でとらえがたいものを単純なものに要約できた時、喜びから感動へ 身近でつまらないものに、複雑難解さを垣間みると、発見から感動へ

両立ー仕事

仕事とプライベートを切断して捉える器用さはなんなんだろうか? プライベートの充実が仕事へのモチベーションに繋がるって? 豊かさをボランティアでなく、経済として廻すことの難しさ。社会のため、人のためが仕事の本質だとするなら、その価値を社会全体で共有して、お金のためのお金でない、生きたお金の使い道。 個人の内面の切断を全体としてどう折り合いをつけるのか? それは分業化された構造をどう統合化させていくかのプロセスで、狭く深く仕事する方向に向かっていくのではないだろうか? 矛盾を受け入れ、対立関係を意識することが前提にないだろうか? だが、量で劣る仕事は、社会の増大するリスクに対しての確固たる意志が必要。質、信頼、運命・・・ 結局のところ自分の楽しいことをやるための今。それにかぎる。そして厳しさ、難しさこそ楽しめるチャンス。周りの環境には感謝。

それはまだ交わらないのか?

youtubeより ニュー不動産展 https://www.youtube.com/watch?v=s-OugvfaIas の動画を何本か見た。そこでの内容について、不動産と建築、経済と生活、仮象と具象について少し考える。 ハコの産業から場の産業へと多くの所で叫ばれている昨今だけど、建物=箱≠建築≒建築物であると思う僕の認識からは理解しづらい。 不動産業は、あるものをどう活用するかという実践者である上で、あるものに価値をどう発見するかは非常に重要で、既存の経済活動と結びつけて、需要に会わせて価値の転換を行う。主体は人間で、そこに変容する仮象の世界を商品としてのパッケージ化して発信する。多くの場合は、商品である建物を画一的にとらえ、かつ、生活の一部を切り取って、消費者にイメージを与える。 今起きているニュー不動産は、「生活にもう少し寄り添って個々の"豊かさ"の価値を高めませんか?」ということではないだろうか。その"豊かさ"が何かの問題はあるが。。 建築はそこで今までの写真映えするモデルハウスのような存在から、少しだけ本来の人間のためのものに近づく。 だが、個人の内面を、切断なしに矛盾を受け入れる建築はそこからはまだ生まれないように思う。 生活とオブジェクトはようやく接点を得られそうで得られないような感じ。。

生活と経済

東京の某設計事務所。 一見、ミニマムで無駄のないカッコいい建物だ。 だけど、ラグジュアリーな、フォトジェニックな、その空間ではモデルが想定されているようなスタイリッシュでカッコよさ。家具までカッコいいものが置かれて写真がとられ、誰のための建築なのか。東京らしさとは。 きっとそこに生活する人はドラマで見たようなカッコいい憧れの生活が手に入れられたと初め大喜びだろう。しかし、建物、生活はそんなに甘いものでない。カッコいいイメージと実際の生活は相容れないのだと思う。本当はそこに人がいるのだ。メンテだって必要だし。 …経済という価値に惑わされる。 ミニマムの捉え方には色々ありそうだ。実在としての建築はそこに力強さの手法を得ることができるが、 シンプルさが別の対象を浮き立たせ、そこに現れ重層的かつ普遍的な価値がまた建築を楽しむ醍醐味だと思う。 宇野さんを対比的に捉えると、 手触り感 生活、素材、機能から施工性までの全体的な枠組みを、時に切り捨て、時に多様に捉えなおす。 場面ごとに実在する建築を根本に保ち、動詞としての建築に重点を置く。 そう。やはり造る行為が普遍的な建築であり、最も楽しい所。そのための粘り強い設計が大切だ。 ps 建築は自然とどう向き合うかが大切なこと。自然とは、木、花、天気、そこにある環境、そして人。 諸行無常な存在に拠り所を求めた時にそこにあるのが、実在する建築。生活の器。秩序を与える何か。

気性、態度があか抜けしていて、自然な色気の感じられること 反語: 野暮 毎日、淡々と。

五感

五感を刺激するって? コンセプトって? 全体のなかの部分を切り取ることによる表現は、実験的な意味での興味の対象とはなるだろうが、そこにある薄っぺらさを感じ取ってしまうと、なんとも貧相に感じてしまう。 反して、重層的な感覚、力強さは、気をどこまで行き届かせ、繊細に統合させていくか。それがディテールだと思う。 だからすべての感覚を駆使して造ることと向き合う。机上では出来ないことに向かって、やるべきことを淡々と。

生きること

死んだ人間への思い。 闇の中の空間。 活性化する細胞。ストレス。 破壊と新たな生命。 幻想。 孤独。 光を求めることに複雑な因果関係はない。 無意識に、明るく共生したいという原則に囚われていては、光を感じとる感覚と向き合えない。 即ち、自覚なき蒸発と呼ぼうか?