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マナー

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オープンハウス 自分なら違う。こうすると思うということから、 建築のマナー 自然のマナー 建築を見るときのマナー 人の関係のマナー 多くのことを考えさせられる体験だった。 またディテールについての違和感。 ディテールは納まりと作法。 納まりは、機能するか、出隅や入隅の処理、逃げ、どっち勝ちか等。 作法は、仕上がり具合、連続性等の他との関係、造る順序、チリ等。 失敗から学ぶことは多い。 順序と思考の依存度、効率性を繋げるルートがどこにあるかだ。

表情

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鉄錆は不思議で魅力的。 自然だから。 そう思うとコールテン鋼ってなんか残念。

時期

今自分に何が必要なのか? 変化という波の中で自分に蓄えられる何か。そう、その重層性。 わかりやすい論理的なことではない。そこに答えはない。一貫性もなく、いろんなものを信じていく。 それを楽しいと思うかどうか。 与える存在と与えられる存在。 バランス。自分の場所を探すこと。きっとある。だけど道のりはすごく長い。 頭でっかちはよくない。

モチベーション

結婚式の二次会があった。 人の悦びを共有することが本当にキレイだと感じる。 友達と会うことで自分の今いる場所が見えてくる。 自分の小ささを感じる。 動くこと、動かないこと、 大きいこと、小さいこと 存在としての自分の姿 今と過去 思いと能力 本音と建て前 バランスをとる難しさは常に突きつけられる。たぶん僕はバランス感覚が鈍い。身近にいる友にバランス感覚の良い人たちを見ると嫉妬もするし、憧れる。この不快感がモチベーションにもなる。自分ができないことができる人に会うこと。心がいつも潰れそうになる。

備忘録

『ほんとう』 1.主観どうしの具体的な関係の外側に、客観的真理があって、それが見つけ出されるのでなはない。「ほんとう」は関係から関係によって作り出される。 2.「真理」「ほんとう」はそれ自体として存在するのでなく、主観の間で妥当、納得、相互了解の努力によってのみ導かれる。従って「真理」、「ほんとう」の低位は主観ー客観の一致の問題でなく、主観の間で妥当性を作りうるかどうかという「可能性」の問題である。 3.妥当を作り出す「可能性」の前提となるのは、生きた主観どうしが、生に対するポジティブな欲望を持っていることである。 フッサールより

日曜日

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 美濃加茂市の朝。自然の中では常に更新される今が非連続的にあるように。鳥たちで本来なる運動を教えてくれているように感じる朝。 高山で町歩き。  鳥肌がたっている。なにかそこに流れる音楽で高揚する気持ちが忘れられないように、忘れられない体験であった。   茶香房ひより すすり茶 田毎の月 こんなおいしいもの・・・忘れられない味であった。

ある構造への批判

最近講演会に行ったH氏の作品の中にで、H型鋼の組積造があった。それを見た際の違和感の理由が今なんとなく気がついた。 それは素材のオーダーに合っているか。 僕は鉄骨は橋のように宙に浮きたがっているように思う。ミースやリートフェルト、スカルパがそうしたように。力強さ、美が生まれていく。 オーダーを読み間違えているということは建築家としては不味い。 自身の感性を信じ、宇宙の法則に従うことがそのためには必要ってことかな。

雑念

個人の主義主張は自由である。しかし社会はそれを受け入れない。社会と自分の距離、そこに隔てる何かは自分の中にある。 建築が総合的な概念として存在するとしたら、すべての存在を受容し、概念として拡大し続ける。それは主体的な意思とは無関係な領域で、誰かが利得のために利用する。 それは強い意思を持つものからは、チャラくて信じがたい存在に見える。雑念。 力が与える負の作用は、直球以外の変化球をみすみす見逃す。それは己が己であることを信じるが故の他との差異について執着するからであろうか。だが、同一性を意識することにより、見逃しではなく、見送りとなることに気がつく。それは今をどう楽しめるかということへの僕にとっての画期的アイデアであった。