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ある駐輪場のデザイン

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とある文化会館の駐輪場。 きっと30年以上前につくっているだろう。 過去の時代が豊かだった際の遺産だ。 今の感覚であれば、駐輪場なんて安く作ればいいよ。ってなりかねない。 だけど、少し想像を膨らませれほしい。こういったちょっと変わったデザインだから、 さまざまな波及効果はあるだろう。この場を使う様々な人が、この駐輪場の空気感を感じるのだから。 このデザインのことを少し考えてみる。 まずこの駐輪場のR状の屋根が、適度に駐輪スペースを包み、反対側が見通せないため、ちょっとしたプライバシーの確保ができる。学生であれば友達とここで少しおしゃべりすることもあるだろうし、利用者が施設に入る、帰る際の心の階層に、少しでもホットできるスペースになり、施設利用の心の奥行き感が得られるだろう。 次に、自転車のホイールを切り取ったような、円弧状の鉄骨の構造だが、この構造が全てのを担い、そのシステムの連続により構成されていることで、シンプルで明快であり、構造的なディテールが意匠にそのまま現れ、個性的で美しい建物となっている。 個性的で美しいことは、街の魅力であり、豊かさである。 それが、そこで育ち生活する街の雰囲気、空気感となっていくから。 また、シンプルな線形の列の構成を2列、斜めに振って構成されており、均質になりがちな駐輪場に余白があり、ちょったした広場にもなっている。ただ駐輪という機能だけを押し詰めた場所でなく、そこで自転車でぐるぐる回っている子がいたりして、暗いイメージの駐輪場だが、なんて明るい雰囲気の駐輪場なんだと思える場所だ。 見逃してしまうデザインかもしれないし、設計者が誰かも知らないが、この設計者は少なくとも今自分が思いつくようなこと以上のころを想像していただろうし、これを造った職人たちも含め、きっとこの仕事は、たのしかっただろうなって思う。 ただ、当初はアスファルト舗装ではなかっただろうし、メンテナンスが行き届いてないところを見ると、あるあるだが、管理者にその価値を分かって欲しいし、物の価値について、様々デザインに耳を傾けてほしいとも思う。 デザインのなかには、利己的なモノや作者の嫌らしさが現れているモノ、雑多な機能に溢れたモノも多いなか、こういったシンプルな機能だからできる駐輪場は、発注者、設計者、の意図が現れやすい部分なんだろう。  

顕神の夢―幻視の表現者―  藤井達吉現代美術館

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  藤井達吉現代美術館での展覧会 『顕神の夢―幻視の表現者―村山槐多、関根正二から現代まで』に行ってきた。 巨匠の絵画が一覧できる魅力はもちろん、その内容は圧巻だった。 観に行って1週間経つが胸のザワザワ、グーっとくる胸への深い圧力がさらに深くへ止まらない。 言葉で表現することがおこがましくなってしまうが、神なる存在との共鳴、顕現とまで言っていいほどの多くの作品は、その作家の個性により表現は異なるが、どこかでそれらの作品は繋がっていて、無為で、弱さと強さを兼ね備え、地に足がつき、輝いていた。 また、それら作家の言葉も絵画と合わせて展示されていて、特に、横尾龍彦、河野通勢、関根正二、三輪洸旗、横尾忠則の作品とその言葉は深く共感し、感銘を受けた。 図録には、より多くの言葉等があり、自分も建築を通しての表現者としてのバイブルの一つになると思う。自分の建築思想の中で大切にしている、非合理的なこと、無意識的なこと、宇宙の法則、情緒性、等を強く意識させてくれた。 本展の冒頭の記述に、『本展は、モダニズムの尺度により零れ落ち、評価されなかった作品・・・中略・・・を、新たな、いわば「霊性の尺度」で作品を測りなおすことにより、それらがもつ豊かな力を再発見、再認識する試みです』と記載があったが、絵画においては知らないが、建築において、霊的な尺度は、時代ごとに語られることはあったが、今この情報化された社会だからこそ、情報として消費する対象でないこの尺度で意識的で再認識することは必要だと思う。 2つほど展覧会にあった言葉を記載します。 われわれの一才はうまれつゝある。神も宇宙も、しんら万象のことごとくが常に生まれつつある。  岡本天明「日月神示、地震の巻」 天と地が一体になって初めて芸術が成立する 絵を描く時、いちいち考えて描かない。むしろ脳を空っぽにしてただ肉体のおもむくままにまかせる。言い方を変えれば、肉体を脳化することになろうか。 頭に観念や言葉があると、理屈っぽい絵になってしまう。理屈を否定し、解放して描くのに、観念に支配されれば、これは僕の絵ではない。 ・・・後略 横尾忠則 美術館が近いので、会期中に再度行こうと思う。