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豊田市美術館 ライト展 富岡氏の講演

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先日行われた豊田市美術館 ライト展 富岡氏の講演がyoutubeにあがっていて拝見し、 後日、展覧会にも行ってきた。富岡氏は私の恩師で、大学3年から修士2年までの4年間、研究室でお世話になった。 ライトの発明や、その造形については、大学時代にも富岡氏が話していたが、実務経験をして、今聞くその話はとても新鮮で、自身の建築への姿勢の刺激になった。 古典建築の造形から、近代建築への移行の中、ライトのその造形的なアヴァンギャルドには、本当に驚かされると同時に、時代の造形的な変容をすごくアクロバティックに説明されていた富岡氏の話には、心躍る建築・設計の楽しさを感じてワクワクした講演だった。 ライトの建築は、学生の時は、こんな時代もあったんだ。伸びやかで気持ち良さそうな建築だな。と思っていていて、深く感じ取ることもなかったが、今思うその建築は、非常に贅沢な建築だなと思う反面、その志の高さ、情熱、気高さがより魅力的に感じた。 もちろん時代とのシンクロがあって彼の功績はあると思うが、富岡氏の語るライトが、貴族主義を信用していたこと、新しい発明により皆が貴族のような気高い生活ができるだろうということ、だから、民主主義は貴族主義なんだ、ということ。これがとても印象的であった。 カッコつけて言うなれば、「美という豊かな普遍性を求め続け、信じる志」その強い想いこそがライトの魅力であろう。 また講演の中で、かつてエコール・デ・ボザールでは、古典主義の比例論や新古典主義的なモチーフがあることから、設計課題では、初期に8時間ほどプランニングされて、その合格者が、その比例論、モチーフを利用して陰影の検討も含め造形、ドローイングをされていったという。 近年の建築において、それはあまりにも想像しづらいことであるかもしれないが、建築の設計において、よりその意匠的な造形、ディテールの検討に重きを置くような設計手法は、今一度見直すべきであると思った。 そして、マンフォード(建築評論家)のフレッチャーへの手紙の中でライトについて語った、以下の言葉は、彼の素晴らしさを評するものであると同時に、建築家の普遍的な志しを語られていると感じた。 ・・・しかし彼は、現在でも過去においても、外も内もすべての構成要素を完全な全体としてまとめ上げることに成功しています。この点において、彼の右に出るものはいません。すべての時代を

ParkーPFIについて

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ParkーPFI: 公園に飲食店や売店などを設置し、収益を公園の整備等に利用する制度 12/8のAbema Primeでこの話題があり、最近、息子を遊ばせに公園に遊び機会も増え、また独り身の時期も公園に散歩や読書しに行くことも多かったので、色々な公園を巡ることはは自分の好きなことで、その場所が変わっていくことは色々思うところがある。 アベプラでこの話題の中で、 「その公園の実態に基づいた形での導入であるべきということを前提に考えるべき」 「公園に民間が入ることで、自由がなくなるのでは?」 「大人がつまらない公園ってどうなの?」 ・・・等の意見があった。 正直公園ごとによって違うのでは?と思ってしまう。 自分が思う魅力的な公園は?と考えると、 1.機能で満たされていない公園 2.緑・水辺がより自然な形である公園 3.都市との距離をとった公園(概念的な意味で) 4.すべて見通すことはできない公園 5.その場所の地形豊かな公園 以上は言い換えれば、 1.何かのため、という目的に限定されてない、何をしても良い"自由"な場所 2.自然がより自然な形で、社会と隔離された"余白"があり、心を浄化してくれる場所 3.資本主義的な営みから隔離され、非合理なことができ、様々なマイノリティの居場所でもあり、地域コミュニティを培う、市民の"平等"がある場所 4.多様な場所をその時の気分、居心地で選べる"自由"のある場所 5.地形という歴史から生まれた場所の力を感じられる、唯一性のある場所 その上でParkーPFIを考えると、 公園の目立つ場所に、人寄せのためのちょっとおしゃれなカフェなんかができることを想像すると違和感があるが、上記の『4』に記載したような場所作りとして、公園の片隅にひっそりカフェがある程度であれば場所があれば、そんな公園も良いよなって思う。 昔ながらの公園にはたまにあるように、それがお茶室だったりしても。 だが視点を変えてみると、情報過多な現代、公園に行って「余白を楽しめる」大人は、20代30代では少なく、歳を重ねれば多くなっていくと思う。 だからこういった話に対して、年配の方々は否定的で、若い世代ほど肯定的なのではないかな?と思ったりもする。 公園といっても都市計画的に種類があり、 街区公園