愛知文化センター、名古屋市美術館に行ってきた。 情の時代が織りなす二次的フェイズの表現展と題してもいいのではないか?と思った。 我々が手にする情報の裏チャンネルを思考すること及び、その情報集積から次フェイズへの示唆としての作品が多く感じた。 その中で、地域、種族による多文化の差異をそれぞれ深く掘っている作品が多く、それぞれが見応えのあり、刺激的だった。
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フィクション
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西加奈子氏の話をラジオで聞いてていた。 小説のおもしろさ、魅力をどうつくるか。 「アート的な観点で言えば、大衆に合わせてチューニングすることはエンターテイメント性が下がりおもしろくない。」 改めて、個性のある画一的でないのが世界だと思い、ものづくりへの思考、デリダの他者論を思い起こす。 まず、おもしろさを求める文化的なものは個性が許容される。 だが、機能的なモノには個性は許容されにくい。 ある、ないの話ではなくグラデーションのあるグレーな話。 当たり前だが、ネジ一本一本に個性があっては困る。(個性には、気まぐれな気質があり、同じものではなく、取り扱いが難しいからであろうか。)ネジは単純で機能的、単語に近い。逆に多くの要素で構成される全体的な「何か」であれば、そこにパターンが多様にあり個性は必然的にうまれやすい。その中で仮に最適解を導かれたとしても、だれかにより否定的な視点が見つかればそれは最適解でなくなる。だから複雑性には個性が許容される。だがその複雑性は機能的である必要がある。 だから、機能的で個性的なモノが生まれる。そこには洗練されたプロセスが内包されているだろう。 覚書になるが、同時に次のようなことも思う。。 ・・・ 情報(経験からではなく、何かの媒体を通して得る情報)は、膨大なフィクションの可能性がある。 社会の中の自分、自分を拡張するフィクションが膨大になると、実存する自分がどう自然と向き合うかという意味で、自分の立ち位置を考える必要が生まれる。絶対的価値基準への渇望とも言おうか。 フィクションに飽きて向かう先にある、地に足のついた関係やモノを・・・ 絶対的ー相対的 という2項関係で考えるならば、 フィクションと先にいった情報は、相対的な価値基準を持つ特性があるだろう。外在化でき、客観性に乗せることができやすいことから、今の社会で適応しやすく、求められる。 相対的でカラッとした情報社会がある反面、元来の日本的という 湿潤さ 発酵の文化 は、外に対して決めなくても、豊かに内包するものがある。 全員で同じものを使う文化ではなく、少しづつちがう文化なんだが。。