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松江、隠岐島

イメージ
3/22-25まで島根県へコンペの発表に行ってきた。片道1日かかるなか、バタバタとし移動し、松江、隠岐島でとても素晴らしい建築、風景との出会いがあった。  島根県医師会館:作者不明 白井晟一の設計だと思っていたが、帰宅後調べてみると作者不明らしい。 長崎佐世保にある 親和銀行本店・懐霄館と似ている。  島根県立美術館:菊竹清訓 水平ライン、湾曲した穏やかな表情と緩やかな空間、 宍道湖を望む景色と同調して、心落ち着く雰囲気を醸し出す。 海士町 牡蠣種養センター:アズテック建築設計研究室  施行中の木の架構。意図のないシンプルな架構は魅力的だ。  隠岐の島町 水若酢神社 古い建物を見て何を学ぶか。人それぞれであるが 周囲の環境を含めた空間配置 建物の誠実さ、威厳、プロポーション 美しいものの普遍の真理を感じる。 資料館 資料館内観 残念ながら休館中で外からしかみることはできなかったが、良い建物であった。  資料館別棟 上記の近くある古民家  いつかこんな建物を造りたい。   闘牛はしていないが、季節がよければ周囲には桜が咲き、とても美しいだろう。 周囲の樹木がその場を囲み、演出し、客席がそれに寄り添う。 場所をつくること、ここでの建築はとても小さな存在に思う。  街を歩けば神社が数々 素っ気ない小屋 小屋好きにはたまらない。  島の穏やかな景色 玉若酢神社  境内にある 八百杉 本殿は茅葺きで最近かけかえた模様 隣の 億岐家住宅 のお母さんに話を聞いたところ 茅葺きも今は島内だけで行うことは難しくなっているらしい。 文化を守ること、そこに住む人の大切にする心 後継していくことの難しさ、現実社会との調整の難しさ 伝えることと伝わることのギャップを埋めることはできないのだろうか。 船小屋  海をバックにする石殿  海へ向かう民家  夕日 美しい様々な景色は心を穏やかにし 「またこの場所を訪れたい」と心に残る

設計

大学の先輩である人建築事務所の関口氏が投稿した文章、雑誌「C&D」を読む機会があったのでそれについて思うとところの覚書をする。 おっしゃっていることは、 1. 言葉による構築から建築を築きたい。 2. 自然環境を謙虚に受け止める姿勢を大切にしたい。 3. 内外の中間領域が好きだ。 4. 機能とデザインは不可分だ。 だと思う。 3. は個人の好みもあるのであろうが、概ね設計者の姿勢として、もっともであろう。 その上で自身が建築とどう向き合うかが重要であろう。 自分の言葉で言いかえるのならば、 1. 建物を築く上で、施主との対話は必要だ。それは「何のための建築か」を実在させるためだ。理想を想像すれば、施主は機能、及び様々な要望を意見し、設計士がそれを形にする。その積み重ねで互いが同じ方向を見て計画を進めたい。そこには、言葉も重要であるが、互いのの「生活感」「人となり」を嗅ぎ取る、対面してのコミュニケーションが重要であろう。 2. マクロな話として、同意する。あまり自分にとっては身近に考えられないためミクロな部分である「庭」を例に思考する。 植物について考えると、そこに植えられる、もしくは植生する植物にとってどんな環境が気持ちいいか。「植物の気持ちになって考えてみること。」 そうすることが、そんな人間本意の庭作りでなく、植物を含むその場所に環境を謙虚に受け止め、その場所に建つ建築をより魅力的にすると信じる。 3.中間領域という表現はあまり好みではない。 簡単に触れるのであれば・・・ 内と外の境界線を線ではなく面として、境界を押し広げること。内のようで外、外のようで内、開いた空間に奥行きをつくるために魅力のある手法であることは間違いないと思う。 4.機能を失った建築は、人にとって不必要なモノとみなされ廃墟となっていく。それだけのことであろう。 あえて否定的に彼の意見を捉えるが、彼は、建築の作り出す空間に意味を求め、諸行無常の現象としての世界に重きを置いていると感じる。 蛇足であるが、本件とは直接関係ないがが最近思うことを、以下書き起こしておく。 設計者が設計という行為の中で「イメージ」をどう構築するかにおいて、作り手へのイメージが希薄になっていることがあるのではないかと思う。 それは社会背景が大量生産、規格化、