投稿

2021の投稿を表示しています

竹村さんの家具

イメージ
  家具職人の竹村さんの納品に立ち会った。 施主さんの要望で映画の一シーンに映ったもののをイメージで伝え、ウォールナットで作ったもの。 竹村さんの家具はいつも誠実で、寸分の隙のなく、実直である。 もう70歳超える大先輩の作る家具には、何百年も使いつづけたくなるような、時間を乗り越えるパワーがあるように感じた。

谷口吉郎・吉生記念 金沢建築館、鈴木大拙館 を訪れて

イメージ
親戚の結婚式の寄り道で、久々に金沢に行ってきた。 谷口吉郎・吉生記念 金沢建築館で 「静けさの創造」-谷口吉生の建築をめぐる-  の展覧会 と鈴木大拙館を見学してきた。 谷口吉生氏の建築は、私自身が建築を志した時から、あえて意識することはないが、どこか無意識に意識してしまう対象であり、彼の建築に対してあまり語らない姿勢を魅力的に思っている。 説明する必要もない巨匠の一人だが、彼の建築の特徴と、私が見る建築への向き合い方を少し綴ってみようと思う。 谷口氏を語る上で、本「谷口吉生の建築  淡交社」の中の槇文彦の文説はとても興味深く、 ミース・ファンデル・ローエの遠心的な壁の配置から求心的な空間へのという設計アプローチの類似性や、 安藤忠雄氏の壁はアプリオリにコンクリートの壁であり、その特性をあらかじめ計測の上で作業が進めていくのに対して、谷口氏を、壁は壁でも与えられた条件の中で、どのような壁にすべきかが選択され、構築されていく。という点、 「座」というシークエンスによる空間構成、 これらは、とても分かりやすくその特性を述べていると思う。 私が体験する谷口氏の建築の印象、 スクリーンをコラージュするような技法で建築を構成しているという点。 それは、壁、窓、格子、植栽、外構、トップライト、各種建築構成物を巧につかって、日本的な面による構成を、緊張感ある洗練されたディテールで、シークエンスの中で連らせている。 その体験の中には、「面」の表裏の概念が、互いに尊重し支え合い、時に透き通るように、その哲学的意味を自然と受け入れることのできる人間の品性を感じることができ、物質性を超えた芸術に近づいているように思う。 また、工学的な理解による洗練されたディテールと、それに支えられた空間からは、世の条理に誠実に向き合う姿勢が垣間見れるように思う。 次は、鈴木大拙館 閉館間際に行ったので、人が最後には自分たちだけになり、夕日が沈む瞬間と自律する建物との贅沢な対話の時間はとても貴重な時間だった。  彼の建築を語ることは痴がましいとも思うが、自身の設計への姿勢を啓発してくれる貴重な体験であることは間違いないと思う。

島田篤氏のオブジェ

イメージ
好きな作家さんの一人の島田篤氏の作品を見に小牧の  les trois entrepôts  に行った。 オブジェをメインの陶芸作家さんに造形は、やさしさと豊かさのプリミティブな表現で、心が揺らぐ。 象のオブジェを一体購入し、とても満足だった。

感情が動く瞬間 という議題

イメージ
morrow打合わせの議題。 感情が動くというと、 怒る様に燃え上がったり、華やかな感激や歓びであったり、忘却を惜しみ、悲しみに浸る心の動きや、無心ではしゃぎ笑い合う晴々しい気持ち、を想像する。 要は喜怒哀楽で様々。 それはその瞬間にしかなく、言葉では捉えようもないことかもしれない。 だから、「心の景色」として その時の雰囲気を言葉では綴れない、写真や映像、絵画や詩、音として記録を残したりする。 自分の記憶の中の「感情が動く瞬間」を思い出そうとすると、美しく加工されたり、悲劇的な様子が心の景色に思い浮かぶ。 すなわち、その心の景色は超主観的なものであるが、普遍的な「美」、もしくは「カタストロフ」を有しているということだと思う。 ここで、美しいことに関する2つの詩を載せる ・ 世界はうつくしいと 長田弘 みすず書房 ・ 重吉と旅する いのちのことば社フォレストブックス うつくしいものとは、それが何か。と、言葉にすると、うつくしさが失われてしまうこと柄であると思うと同時に、自然の状態をそのまま受け入れる心の中にあるもののように思う。 すなわち、感情が動く瞬間を考えて、それの正体を明示することは無理なことであると思う。 しかし、自らうつくしさを求めるには、その存在を信じることは絶対必要で、信じて、それを探す先に、自己の世界を超越した世界が見える気がする。  ・・・ことを信じたい。

小さく、大きく

イメージ
建物を計画することは、一つ一つが新たな価値の創造だと思う。 だから設計は面白く、毎回異なること考えなければならない。敷地、そこに住む人が異なれば、同じ道筋で進むことはない。 建築は、数式を解くように答えが導き出せるものではない。 世間には数式的な建築は多々あるが、小手先のギミックで生まれる建築には情緒を感じられない。 住宅においては、小説の行間を読むように、敷地、施主と対話し、心の拠り所を創造することが求められていることだと感じている。 建物に内包する景色、その佇まい、つくることにより生まれる生物の居場所は、図面から見える計画的なスケールだけではなく、もっと小さいスケールにも本質があり、 (例えば私であれば、食後にコーヒーを飲むダイニングで、片付けが残るテーブルと湯気が登るコーヒーカップのコラージュされた景色に生活の活気を感じることと同時に、コーヒーカップの中に反射して映り込むリビングの天井と、コーヒーの黒々をした底の見えなさ、立ち上る香りから、平和な日常に安堵しながら、仕事のことを頭に浮かべる。そんな主体的なスケールのこと) 見逃されがちな小さなスケールの景色や居場所は、数学的でなく、感覚的である。 建築を丁寧に考えるとは、より主体的で、より小さなスケールで考えることだと思う。

波の形

イメージ
 揺れる水面から反射する光が映し出す情景。 消費されない芸術は、人外の力により与えられ、それを見出す瞳の先に思い起こす過去、未来は錆びつくことはないはないだろう。

時空

イメージ
約 1年半かかった現場が竣工した。 約4年ぶりの宇野友明建築事務所の現場管理であった。 宇野建築独特の雰囲気は、 自然と建築との対話がそこに常にあり、 それぞれの物体、素材が空間の中で品良く並んでいる。 安易な言葉で語ることは痴がましいが、 時を超え、素材がもつ素性が露わになる喜びを 大地に根付く建築の中で表現された芸術である。 宇野さんは「新築の遺跡だな」と話していたが、 何十年後かの姿はより美しくなるだろう。楽しみである。