セルフプロデュースは、”自ら仕事をする”、”良い建築をつくる”ために必要不可欠だ。 だけどその手法(アウトプット)は人それぞれ。 <一般> 自分をあるキャラクター化し、そこにアンカーを打ち、そこを主軸に社会へ働きかける。 キャラクター化はある特徴を顕在化させ、見えやすく化する。反面、特定のキャラクター化することで見せない自分を作り出しているとも言える。それは広告的であり、消費社会になかで常に廃れる対象となる。それに伴い仕事がなくなるのは困る。更新する必要が生まれる。建築は比較的、流行の流れが遅く、ある程度同じ様態で留まることが可能であるのが救いである。 キャラクター化することはある立場になりきり、ある種の一貫性を獲得できる。「わかりやすさ」はそのために生まれる。「わかりやすさ」を担保するために、説明的な手法が用いられ、コンセプトが必要となる。自分を大勢に売るためには必要だ。 しかし、「わかりやすさ」≠「本当」だ。建築家がその役割を引き受けるかは考える必要があろう。 <憧れ> 職場の所長は”キャラクター化をしないそのままの自分を見せるというキャラクター化”をとっているように思う。それは前の<一般>とはほぼ逆だ。 まず、”そのままの自分を”とは自分の強さ、弱さを引き受け、それを言葉通り”そのまま”だろう。それは広告的でなく、「分かりにくさ」がある反面、人間的で施主に対して非常に良心的だ。そこにつきる。 建築が人の物であるかぎり。住宅はその領域として残されている。本当か? メディアに自身を映すことも、<一般>とは異なってくる。それは切り取られた一部であり、そのままという全体を表現することの難しさからそれ自体を拒絶する。体験することが一番良いが、それ以外の方法はないのか?写真のモンタージュのような方法に可能性はないだろうか。メディアの特性でそこにリアルな媒体がある以上、切り取って伝える他ないのだが、切り取った情報を全体の雰囲気として伝えるということ。部分の切り取りに固執せず全体を失わずに読み込む。そこには見る側のリテラシーが求められ、分からなくても良いという割り切りをどこかで持たないと難しそう。 またそこに自分が向かうのならば、自分に確固らる自信、もしくは決意と目的への思考の一貫性が必要であると思う。そうでなくても必要だが。 これら