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1月, 2017の投稿を表示しています

曖昧さの罠

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コインには表と裏がある。 表と裏の矛盾を調停するために曖昧さが利用される。 事実をねじ曲げ、結論を先延ばしする。 だけど曖昧さは感情と結びつき価値を揺れ動かす。 光が導く先に集中する。

自分のもの感

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設計事務所の仕事が減っている。 なぜか? 金銭的余裕がないから? 家にお金をかけない?変化の激しい時代に不動産という長期的な固定資産にお金をかけることにリスクを感じるから? 設計事務所は敷居が高いかなーと思う人がいるから? 設計事務所のつくる家は、家具、ファッションとは違い、一品生産で商品でない。オーダーメイドであり、施主と共に築くものでありたい。 施主はこう思っているのではないか。デザインについて「家」は多くの条件があり、自分の意向が全てに反映され、自分好みの生活空間をつくるのはそもそも難しそうだな。それなら、自分好みの生活感、趣味の反映された、自分で選べるインテリアで生活を楽しめればそれでよいかな。それは自分で想像できるし。 建築家のやっているようなことはなかなか想像できないし、怖ーい感じもするし。 本当に良いのかな?と。 まず家を建てる数が少子化や、情報化といった社会的要因により絶対数が減っていることは事実。リスクマネジメントとしての社会的信頼を求めていることも事実。 その上でデザイン性への求める声を聞くと、それは個人の経験の中に収束し、個人の満足感にどこまで答えられるか。 建築という実存が自分のもの感になりづらく、家という生活の現象との距離をどう構築するかが問われ、建築家はキャッチャーになるべきなのか。価値は求められる数のみなのか。 良いものを造るという信念のもと、建築家の価値を問いただされているように感じる。 すばらしい建築を見て、挫折感と現実の対称の関係を踏み台にする。

時間

ハウスメーカーの商品の選択は、時間の想像の欠如だと思う。生活とは時間のマネジメントであり、それを創造することは、時間的な価値観をどう引き延ばすかとう戦い。それがディテール。 エンタルピーの異なる素材を組み合わせる秩序。 生命が織り成す、高次のディメンションの情報のやり取りは、自然との接点をつくる建築をポジティブに捉える。また、創り出そうとするものが生命的であれば、それは時間を有すること。

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雪解け、光の反射、いつにない景色に心踊る。 童心に戻る!